19世紀後半、ヨーロッパの品種がカリフォルニアにも大量に導入され、Charles Krug(1861年)、Inglenook(1880年)といった著名ワイナリーがヨーロッパ系品種のワインを造り出しています。それに先んじて1780年代には、同じくヨーロッパ系品種(ヴィティス・ヴィニフェラ)であるミッション種(遺伝子をもとにスペインのListan Prieto種が親であることが判明しています)を用いたワインがアメリカ大陸で広く栽培されていました。1888年のナパにおけるヨーロッパ系品種の栽培面積も15807エイカー(1888 Board of Vit. Com. Report)と広大です。
そして、1890年代になってカリフォルニアでフィロキセラが猛威をふるい、その被害の広がりが地図として残されています。
これらの説明は、時系列的に矛盾を含んでいます。ヨーロッパ品種を枯死させるフィロキセラがカリフォルニアにいたのであれば、対抗策が講じられる前のアメリカではヨーロッパ系品種は育たないはずです。しかし、1890年以前には問題とはなっていなかったのです。
フィロキセラは何処からカリフォルニアに来たのか?これに対する明確な答えは未だ存在しません。以前はカリフォルニアにフィロキセラは生息しておらず、アメリカ内陸部の何処かから、ヨーロッパとほぼ同時にナパ等に持ち込まれたという説が有力です。また、ミッション種はフィロキセラのいない砂地で栽培される傾向が強かったので、たまたま影響がなかったとも言われています。さらに、ヨーロッパ品種とともにヨーロッパからアメリカに持ち込まれたとの極論もあります。